困った時は迷わずヘルプ
こくばんID
パスワード
←序章:ちいさな冒険 その10 湖城の秘密 その2→

二章:湖城の秘密 その1

 黒の森の、長い長い冬がようやく終わりを告げました。
 普通黒の森といえば、大半の人が黒く茂る木々や香草と雪の白のモノクロな光景を想像しますが、春の黒の森はそういったイメージからはかけ離れた姿をしています。
 黒――秋に葉が黒く変化する木々は冬の終わりに落葉し、この頃になると新しく青々とした新緑を芽吹きます。
 白――地面をすっぽり覆っていた雪はすっかり溶けて足元は生い茂る雑草や地肌が丸見えになっています。
 木々の黒も雪の白も、春の黒の森には見当たりません。
 森の奥には、相変わらずひっそりと大きなレンガ造りの屋敷が建っています。
 けれど崩れ落ちていたはずの二階部分は綺麗に修復され、壁を覆いつくしていたツタもほとんどが刈り取られていました。ボロボロの廃屋で今にもお化けが出てきそう、という印象しか持てなかった屋敷が、見違えるほど綺麗になっています。
 煙突からは今日も白い煙がもくもくと立ち昇っていて、おじいさんが窓辺の作業台でこくばん作りの仕上げに取り掛かっているところ。やすりでこくばんのまわりの木を滑らかに整えたり、強度を上げるため裏面に塗料を塗ったりしています。
 工房内は静かで、こくばん作りの作業音や、大きな置時計の刻む規則的なリズムがやけに大きく響きます。
 それどころかもうじきお昼時だというのに、アリーチェが「お昼ご飯だよー」とおじいさんを呼びに来る気配もなければ、ぴよぷーが忙しなく野鳥を追い掛け回す声すらも聞こえてきません。
 ふと、おじいさんが作業の手を止めました。寂しそうに窓の外の空を見上げ、ほう、と一つため息をつきます。
「そろそろ汽車に乗った頃か」
 そう、アリーチェもぴよぷーも、もうこの家にはいないのです。
 あの”小さな冒険”からちょうど十年。アリーチェは寒い日も暑い日もおじいさんの厳しい修行に耐え、餞別代わりに譲り受けたぴよぷーと一緒に今朝早くこの家を出て行ったばかり。
 置時計が正午を告げる金属質のメロディを奏で始め、同時におじいさんのお腹が空腹を訴えます。
 おじいさんはいつものクセで廊下に向かって声を張り上げました。
「アリー!……そうだ、いないんだったな。そろそろわしもボケてきたか……」
 ここ数年は修行と称しアリーチェに任せっぱなしだった家事全般も、今日からは自分でこなさねばなりません。
 こくばん作りをしながら家事もこなすのは、もうじき七十を迎える体にとってはなかなかに辛いものがあります。
「昼……面倒だな……」
 せめてすぐに食べられるパンだけでも、とは思うもののそれすらも億劫になってしまったのでしょう。おじいさんは軽く深呼吸をすると未完成のこくばんに手を伸ばし、仕上げ作業を再開してしまいました。


 綺麗に晴れ渡った空の下、草原の真っ只中に、鋼鉄製のレールが真っ直ぐに伸びています。その上を真っ赤な汽車が黒煙を吐き出しながら王都ファーゴットに向けて走っていました。
 早朝、まだ日が昇る前に起きて十五年過ごした家とおじいさんに別れを告げ、黒の森を抜けるのに二時間。リロフォンの町には汽車の駅がないため、駅のあるティンバーの町までバスに乗って更に二時間。ティンバーの町でようやく汽車に乗り込み、汽車が駅を出発してから既に三時間以上が経っています。
 時刻はちょうどお昼時。アリーチェは八両ある客車の前から三両目、部屋指定のない一般客車の小部屋で昼食のサンドイッチをかじっているところでした。
 ぴよぷーは当然のことながら手荷物として客車に持ち込むことができず、あらかじめ用意していた荷物鞄に押し込まれ、他の乗客の荷物と一緒に薄暗い貨物室に積み込まれています。
 アリーチェの服装は、この日のために、とおじいさんに買ってもらった襟つきの真っ白なシャツと、歩きやすい茶色のホットパンツ。頭に被った古びたベレー帽の隙間から長い長い三つ編みが二本伸びており、足にはぴかぴかに磨き上げられた黒い革靴を履いています。
 風を取り込むべく開かれた車窓の外、流れていく景色を眺めながら卵とレタスの挟まれたサンドイッチを一口かじりました。
「おじいちゃん、ちゃんとご飯食べてるかなぁ」
 何気なしに、口からぽろりと言葉がこぼれ落ちます。
 これまで黒の森とリロフォンの町だけが世界のほぼ全てだったアリーチェ。
 汽車が発車したばかりの頃は新天地にわくわくと心を躍らせていたものの、車窓から見えるのは代わり映えのしない草原ばかり。
 景色に飽きて部屋を出て、高級客車を除いた客車や食堂車の探検も大方済ませてすることがなくなると、やはり浮かんでくるのはおじいさんへの心配です。
 おじいさんはこくばん作りの作業に没頭しはじめると、他のことが手につかなくなるところがあるのです。きっと今頃はお腹を空かしながらも何も食べていないに違いありません。
 お昼はまだいいとして、夜はちゃんと食べるのでしょうか。掃除も洗濯も、アリーチェに全て任せていた数年の間に道具の使い方をすっかり忘れてしまっているかもしれません。
「あぁ~、やっぱりお昼ご飯だけでも作り置きしてくるんだった!」
 頭を抱えていると、控えめに扉がノックされました。
「はい?」
 席を立って扉を開けると、人の良さそうな老いた男性と、その背に寄り添うようにして同程度の年齢の女性が廊下に立っていました。見たところ夫婦のようです。
「席は空いていますか?」
 男性が被っていた帽子を取って尋ねます。
「あ、はい!どうぞ!」
 アリーチェは二人が部屋に入りやすいよう、立ち位置を入り口から一歩ずらしました。
 二人は会釈して順に部屋へ入ってくると、重そうな鞄を荷物棚に乗せ、アリーチェが座っていたのと向かい合った座席に腰を下ろします。
 続いてアリーチェが元の場所に座ると、女性がさっそく話しかけてきました。
「私はイルマ。こっちは夫のコンラッドよ。短い間だけどよろしくね」
「よろしく。妻はお喋りが過ぎるから、面倒だったら適当にあしらってくれて構わないよ」
「わたしはアリーチェです。よろしくお願いします」
 アリーチェは軽く頭を下げ、二人と握手を交わします。
「あなた、こくばん使いなの?」
 子供の一人旅は珍しいからでしょうか、イルマは座席に置かれたおじいさん特製のこくばんを指差して尋ねてきました。アリーチェは笑顔で頷きます。
「ずっとおじいちゃんの下で修行してたんですけど、そろそろ一人でもやっていけるんじゃないかって言われて。
 これから王都の絵師協会に登録しに行くところなんです」
「まあ、そうなの!私達は旅行先から王都に帰るところなのよ。王都は初めて?」
 アリーチェは恥ずかしそうに俯きます。
「いえ、王都どころか汽車に乗るのも初めてで……。
 お二人は王都に住んでらっしゃるんですよね。わたし王都のことはほとんど知らないので、もしお暇でしたら教えていただけませんか?」
「勿論!いいわよ。向こうに着いてから誰かに訊くのも面倒ですものね」
 イルマは笑って答えると、膝の上の鞄から小さなメモ帳と万年筆を取り出しました。
 椅子の側面から収納式の机を引き出すと、その上にメモ帳を置いて万年筆を走らせます。
 ページいっぱいに大きな円が描かれ、その中に小さく歪な形の丸がいくつも描き足されていきます。
「そうだ、王都は区画ごとに建物の種類と、それから使うレンガの色が決められているのは知ってる?」
 アリーチェは不意に投げかけられた質問に、首を横に振って答えました。
「一応話に聞いたことは……でも実際に見たことはないので詳しくは知りません」
 その言葉を聞き、イルマは小さな円の中と、大きな円の下に何やら文字を書き始めました。
 小さな円の中にはそれぞれ『赤』や『緑』などと色の文字が書き込まれ、大きな円の下には色別で分けられた建物の注釈がつけられていました。
 赤―商業区画。商店・問屋・宿屋など。
 黄―農業区画。農家や作物庫。ほとんどは麦の農家。
 緑―住宅区画。北に行くほど高級住宅街。
 青―工業区画。食品加工・家具工房が特に有名。
 茶―行政区画。行政管轄の役所・役人のための寮など。絵師協会もこの区画。
「だいたいこんな形かしら。区画間を行き来するバスなんかが走ってるから、使えば楽に移動できるわよ。
 他に何か訊いておきたいことはある?」
 アリーチェは考え込む時のクセで拳を口に当てました。とりあえず今晩泊まるところと、あとは絵師協会の場所も訊いておいたほうが無用に迷わずに済みます。
「宿のオススメとかってありますか?
 あと絵師協会の建物の詳しい場所も」
「宿のオススメ……そうねえ、料理が美味しいのはリタルダンドね。宿泊代も安かったはずだし。
 場所は大通りの一本西の通り。小さくて見逃しやすいから、青い看板を探して歩くといいわ」
 イルマはそう言ってページをめくると、王都の全体図の裏側に宿周辺の詳細な地図を書き足してくれました。
「それから絵師協会の場所だけど、うーん、確か東側の区画だったような気がするのだけれど……」
 万年筆を机の上に置き、頬に手を当て自信がなさそうに答えます。
 こくばん使いやはくばん使いといった絵師が有名になったとはいえ、その人数は総人口に比べればとても少ないもの。関係のない世界に住む人達にとって興味の対象外なのは仕方がありません。残念ですが、自分の足で探すしかなさそうです。
「東側の少し奥まったところにあるよ」
 それまで腕を組み目を瞑っていたコンラッドが、急に背もたれから体を起こしました。
「んー、だいたいこんな感じかな」
 イルマと同じように、裏側に細かく周辺の建物と併せて地図を書き足します。
「絵を扱う特殊な業務だからね。特例で全色のレンガを使っていいことになっていて、すごくカラフルな建物だからすぐにわかると思う」
 ページを綺麗に破り取ると、アリーチェに差し出しました。
「簡易の地図代わりに持っていくといい」
「ありがとうございます!」
 これがあれば少なくとも田舎者丸出しにはならずに済みそうです。
 アリーチェは笑顔で二人に礼を告げると、地図を丁寧に畳んでショルダーバッグのポケットに仕舞いました。
「ところで、まだ未登録のこくばん使いなのよね?
 こくばん魔法ってどのぐらい使えるの?」
 イルマが目を輝かせて訊ねてきます。つまりは珍しいこくばん魔法を一目見てみたい、ということでしょう。
「ええと、じゃあ一つ使ってみますね」
 アリーチェはこくばんを膝の上に引き寄せ、バッグからチョークを取り出しました。
 狭い車内で使え、なおかつ目を惹く魔法と言えば、それだけで種類が限られてきます。
 白、緑、青、茶。四色を使って絵を描き、聞き慣れた呪文をそっと呟きます。
「ライズ」
 アリーチェの呪文に呼応し、こくばんから孵化するかのように、美しい蝶が飛び出しました。きらきらと光る鱗粉を散らしながら空中で数回羽ばたくと、アリーチェの肩の上でゆっくりと羽を開閉します。
「まあ、綺麗!」
 イルマはうっとりとした様子で、コンラッドは興味深げにしげしげと蝶を眺めまています。
 蝶はやがて肩から飛び立ち、開いた窓から外へ出てあっという間に姿が見えなくなってしまいました。
「素敵!とても美しい蝶ね。見たこともないわ」
「まあ、まだまだ未熟なんですけど……」
 照れながら右手で頭を掻くアリーチェ。その左手を両手で包み込み、イルマはぶんぶんと首を振ります。
「そんなことないわ!あなたなら試験だって一発合格間違いなし!応援してるわ」
「ありがとうございます」
 イルマのあまりに真剣な様子に、アリーチェはふと表情を緩め、はにかみながら答えました。


 それからも王都の美味しい食べ物、見所、年に四回開催されるお祭りの話やアリーチェが長年暮らしていたリロフォンの話、それから夫妻の旅先での話など。
 アリーチェとイルマが主に言葉を交わし、コンラッドが二人の話に注釈や小話を挟む形で会話が思いのほか弾み、あっという間に時間が過ぎていきます。
 和気藹々と歓談を続けていると、部屋の上部スピーカーから車内アナウンスが流れてきました。
「本日もフェルブノイ鉄道をご利用いただきまして誠にありがとうございました。
 当列車は間もなくファーゴットに到着致します。お降りの際は忘れ物などないようくれぐれもお気をつけ下さい」
 三人は揃って車窓の外に目をやりました。草原はいつの間にか姿を消し、王都外の田畑や舗装路が広がっています。
「あと五分ぐらいかな。駅に着く前に準備して出入り口前で待っていた方が良いよ。すごく混むからね」
 コンラッドはそう言って立ち上がり、荷棚の鞄を下ろして降車の準備を始めました。見ればイルマも水筒や茶菓子を鞄にしまっています。
 アリーチェはいそいそと立ち上がるとボストンバッグを肩にかけ、こくばんを首から提げ、ぴよぷー用のショルダーバッグを右手に持ちました。できるだけ軽くしようと荷物を抑えてきたので、下手をするとイルマやコンラッドよりも荷物が少なそうです。
「えと、色々ありがとうございました!先に行きますね」
「こちらこそ!あなたの未来に輝かしい栄光があらんことを。暇ができたらいつでも遊びに来て頂戴」
「はい!それでは」
 二人の笑顔に見送られ、アリーチェは部屋を出て車両ごとの出入り口に並びます。
 最初はまばらだった人影は、駅に着く頃にはすっかり長蛇の行列になっていました。
 扉が開き、前の乗客に続いてホームへと降り立ちます。
「んーっ着いたあぁ」
 長時間の移動で重くなった体を大きく伸ばしてほぐすと、人でごった返したホームをきょろきょろと見渡します。
 まず驚いたのはやはり人の数。王都だけあって、かなりの数の人が乗降のためホームに行列や人だかりを作っています。ティンバーですら人が多いと思っていましたが、それと比べても圧倒的な人数です。
 それから天井。大人が二十人ほど肩車してようやっと手が届くか、というぐらいの非常に高い天井です。
 さすがに上部にまでレンガを使うと加重がとんでもないことになるからでしょうか、上のほうは木造になっていて、梁や柱にくくりつけられた大きな水銀灯が昼でも暗くなりがちなホームを煌々と照らしています。
 星のようにも見える水銀灯の明かりに、人の波。まるで御伽噺の世界に迷い込んでしまった気分です。
「改札はっと……」
 標識に従い改札へ向かいかけ、切符を取り出そうとショルダーバッグの内ポケットに手を差し入れます。
「ん?」
 ややこしくなるからと他には何も入れていなかったはずのポケットに、切符以外の硬い感触。取り出してみると荷札の片割れでした。そう、荷物として預けたぴよぷーを引き取ることを完全に忘れていました。
「そうだ、ぴよぷー!」
 時計と案内板を見比べると、この汽車の停泊時間は残り5分。急いで貨物車の方へと走ります。
「すみませんっ!Eの、65、はぁ、はぁ、お願い、します」
 時折人にぶつかりながらも貨物車にたどり着き、息を切らせて荷札を入り口に立っていた係員に見せます。
「はい、どうも。おーい!Eの65!」
 入り口の係員が貨物車の奥に向かって大きな声を張り上げると、奥から別の係員の両腕に抱かれてぴよぷーが出てきました。
「ぴぃ!ぴーぴぴぷー!」
 アリーチェの顔を認めると、ばたばたともがいて係員の腕から抜け出し、そばへとやって来て騒がしく鳴きます。どうやら迎えに来るのが遅い!と大層ご立腹の様子です。
 アリーチェはすっかり上がった息を落ち着けるため、バッグから水筒を取り出して残ったお茶を一気に飲み干します。
「ぷはー、ごめんごめん、あとで焼き鳥あげるから」
 トサカを赤くしそうな勢いで憤慨するぴよぷーをいつもの手で宥め、持っていたショルダーバッグを慣れた手つきでとさかにひっかけてやります。
「ぴぃ」
 いつもの格好に戻って我に返ったのか、ぴよぷーは先に改札の方へと飛んでいってしまいます。
「ちょっと、ぴよぷー!」
 ぴよぷーを追って大きな階段を人混みの隙間をすり抜けるようにして降り、長い通路を経て改札で駅員に切符を渡します。
「ティンバーから、と……はいどうぞ。お嬢さん、良い旅を」
 年老いた駅員の笑顔を背に改札を出ると、そこには美しい王都の町並みが広がっていました。
 挿絵を描く 挿絵一覧

←序章:ちいさな冒険 その10 湖城の秘密 その2→

ここだけでは物足りない、もっと黒板消しに触れていたい人に